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ショートショート『見られている世界』 [その他]

フィクションの小話を妄想したので以下、記録。



 朝、新聞を広げると「改正案が成立」の見出しが目に飛び込んできた。
 最近よくニュースなどで耳にする法律の改正案が国会で成立したらしい。
 恥ずかしい話であるが、世の中で話題になり新聞やテレビなどでその改正案のネガティブな影響について多くの意見が出ていたが、改正案の原文をこれまで読んだことはなかった。
 エヌ氏は新聞に掲載されていた法律改正案の原文に目を通した。
 
 ……おかしい。
 確かに世間で問題視されている記述は改正案の冒頭に書かれていた。この改正案を偏った解釈で運用すると様々な問題が起きるかもしれない。しかしエヌ氏が目を疑ったのは、改正案の最後から二行目に書かれた記述だった。
 
 『第七十五条 この法律で規定した罪を犯した者への処罰の執行はエヌ氏が決定する』
 
 改正案の別紙には、この『エヌ氏』が生年月日、戸籍、住所ともに自分であることが詳細に記載されていた。もしこれが本当であれば、この法律の効力はエヌ氏の判断に左右されることになる。
 
 明らかな誤記に違いない。そう思ったエヌ氏は新聞社に電話をした。
 電話に出た新聞社の担当者は「確かにおかしいですね。失礼致しました。編集部に確認して折り返し連絡致します」と言って電話を切ったが、しばらくして掛かってきた連絡は「確認しましたが掲載した改正案は政府広報官から配布されたものです」とのことだった。
 
 頭の中がチリチリするような感覚に襲われた。
 エヌ氏は会社に体調不良で休むと連絡した後、政府与党の事務所に電話をした。その政党の窓口の人間も新聞社と同様に一旦確認すると言った後、やはり新聞社と同じ回答をするだけだった。
 
 エヌ氏はしばらく考えた後、政府広報の連絡窓口を調べて電話をした。
 「昨日成立した改正案の内容に関するお問い合わせですか。……確かに正式に配布した資料でもご指摘の記載がございますね。確認しますのでお待ちください」
 ここでも同じ反応だった。皆、この改正案を話題にしていたのに何でこんな大切な記述を今確認しているんだ。
 「エヌ様、お待たせしました。内閣法制局担当者に確認致しましたが、ご指摘頂いた記述は正式な改正法案として承認されております。経緯につきましては担当者からご説明に伺わせて頂きます」
 「ちょっと待ってください。それじゃあ今回の法案、本当に私の判断次第ということなんですか。そんなのあり得ません」
 どんなに言ってもそこからは『担当者が説明に伺う』の一点張りだった。
 昼を過ぎる頃には、家の周りには記者やカメラマン、近所の野次馬が押し寄せていた。その群衆を散らすようにしながら現れた政府の担当者は、憔悴しきった顔の友人アール氏であった。
 
 「つまり、今回の法案は君がふざけて草案に書いていた内容がそのまま正式な改正案として承認されたということか」エヌ氏はソファーに沈み込みながら、可能な限り冷静さを保つように言葉を吐き出した。
 「つまり、そういうことだ。こんなことになって申し訳ない。以前、君とバーで飲んだ時に話していた冗談を草案作成時にふざけて書いてしまったんだ。当然、草案のチェックで削除されるはずだったんだ」
 アール氏は大学時代の友人で、現在は内閣法制局で働いている。
 今回の改正案の草案作成は、彼が所属するグループが担当していた。
 アール氏が言うように、重要な法律に関する仕事なので通常は当然複数の人間で草案の内容を確認し、誤記や矛盾がないか検証するはずだった。
 しかし、今回の法案は限られた時間の中で国会を通過させなければならず、また非常に多くの関心を世間から集めており多くの人間の目にさらされ冒頭の条文などは与野党のみならず世論を巻き込んでの論争の上でまとめ上げられたものだった。そのため、草案作成者も内閣も、与野党の政治家やマスメディアや知識人など、世の中の多くの人間が改正案の内容を読んだ気になり、何かあれば誰かが見ているだろうと思い込み、結局、法案の原文をまじめに全て読んだ人間などこれまでいなかったのだ。
 
 「法案に賛成する人間も、反対する人間も、それらの人の意見を鵜呑みにして賛成だ、反対だと言っている人間も、世界中の誰一人として本当に自分の目で見た人間がいなかったのか。それでなんでみんな『見られている世界はいやだ』っていうんだ。だれも見てないじゃないか」
 少なくとも、エヌ氏の言葉に反論できる見ている人間は、今の世の中にはいなかった。


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